寂光寺の由来
寂光寺は、鎌倉時代の元久二年(西暦1205年)光相比丘尼(遊女 妙)により創建されました。正式には、寶林山普賢院寂光寺と号しますが、親しく江口の君堂と呼ばれております。
創建当時は天台宗のお寺でありましたが、江戸時代正徳年間、普門比丘尼の代に日蓮宗へと改宗されました。
複層方形造りの本堂は、その普門比丘尼によって再建されたもので、日蓮聖人の祖師像をはじめ、開山の光相比丘尼や普賢菩薩、観世音菩薩などがまつられております。
当地は古く江口の里と呼ばれ、京都と大阪、西国を結ぶ海上交通の要所として栄え「天下第一の楽地なり」と云われ、遊里としても賑わったようです。

当山を有名にしたのは、「新古今和歌集」にある西行法師と遊女 妙(開山)との贈答歌であります。自由人と言われる西行にとっては、なんてことのないお話かもしれませんが、僧侶と遊女の皮肉交じりの問答が世間に注目されたのでありましょう。
このお話は、観阿弥作、能の謡曲「江口」や江戸時代の長唄「時雨西行」などで語り継がれてきました。
また、古くから多くの歌人が当山を訪ね、歌を詠んできました。近年では、高浜虚子や阿波野青畝などが当地で俳句を詠まれております。

西行法師と遊女 妙の贈答歌
ご出家の身だとうかがっておりますので
遊女が暮らす宿などに心をお留めに
ならないようにと思ったまでです
世をいとふ 人とし聞けば仮の宿に
心留むなと思うばかりぞ
出家せよと頼んだなら難しいでしょうが
雨宿りの宿を貸すことさえもさえも
あなたは拒まれるのですね
世の中を いとふまでこそかたからめ
仮の宿りを惜しむ君かな
仁安二年(西暦1167年)の秋の夕暮れ、西行法師は天王寺へ参詣の途中、江口の里で雨に遭います。仕方なく、一夜の雨宿りを乞うのですが、家主の遊女はこれを拒みます。途方にくれた西行が詠んだ歌に、遊女がすぐさま返歌を詠みました。
この歌問答が縁となって、二人は長雨の一夜の歌のやり取りで過ごしたと伝えられています。


江口の君(遊女 妙)は、一説に平 資盛の娘とも云われますが、定かではありません。平家没落後、江口の乳母の下に身を寄せるが、やがて遊女になったと云われます。
西行と歌問答をする才を有することや、平家と縁が深い西行が妙のことを気にかけていた様子を考えると、平氏と繋がりがあるものかもしれません。

普賢菩薩に会いたいと願っていた性空上人(書写山圓教寺の開基)が遊女に導かれて普賢菩薩に会うという説話が合わさり、謡曲「江口」では江口の君が普賢菩薩へ変化して白象にまたがり天高く消えていくと語られています。

境内のご案内


